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先輩へ、後輩へ、同期へ

 例年先輩方が書いている「I will」に、ついに自分の番が回ってきたのが信じられません。多くを成し遂げた先輩方が書く文章は(お世辞抜きに)どれも素晴らしいものでした。興味が向けば、是非他の「I will」も読んで欲しいと思います。

 さて、僕ら4年生の大半は、新型コロナウイルスによって多くの活動を制限された挙句、対面活動再開を待たず秋ごろに引退をしました。だから、先輩方のように清々しい言葉を残すのはとても難しい。けれど、やっぱり一緒に活動してきたチームメイトに、ここでしか伝えられないことがある。そんな気持ちでこの文章を書いています。読んでいただければ嬉しいです。

 

 昨年12月18日、リーグ戦再開後最終節にしてようやく後輩たちの試合を見ることができました。内容や結果はともかく、忘れていた「熱さ」を久々に感じられる試合でした。試合後主将の牛丸に「どうでしたか」と聞かれ「良かったよ」と言った時、部活をしていた当時のことがフラッシュバックしました。

 

 入部から1年生の終わりまで、自分は全く取り立てるところのない選手でした。謙遜抜きに。それどころか部のやり方が気に食わなくて愚痴を言ったり、先輩に怯えたり、チームにマイナスな選手だったのでは?とすら感じます。コーチもおらず、学生主体で、練習時間が限られたサッカー部に馴染めなかったのを覚えています。

 転機が訪れたのは1年生の12月。こんな時って大抵強めのグッドエピソードが来るはずなんだけれど、僕に訪れたのは大怪我でした。練習試合の東京理科大戦で左腕骨折。しばらくサッカーができなくなり、手術のためすごすごと実家に帰りました。

 

 手術と入院が終わり、春ごろ部活に戻ってきた時、チームにほとんど変化はありませんでした。でも、これってすごいことなんです。都立大サッカー部は3年生で「引退」。その後4年になってから部活をするかどうかは各個人の判断に委ねられます。したがって新シーズンの初めはかなり部員が減って、少し寂しい空気になります。けれど、この年の4年生は凄かった。ほとんど全員がチームに残ってくれました。彼らの気持ちは推し量ることしかできないけれど、きっととんでもなく熱くて、後輩思いの人たちだったんだな、と思います。この時初めて、自分がいかに自分のことばかり考えていたかを思い知りました。

 

 そこから一転、僕がリハビリを始めた2年生の初め。新入生を加えたチームは一気に変化していきます。まず4年生の選手が1人、学生コーチに転身しました。彼は大怪我をした後、たくさん勉強して得たであろうサッカーIQをフル活用し、チームになくてはならない存在になっていきました。さらに、外部からコーチも来てくれるように。有望な新入生も多く、ようやく戦術的な整備がなされたチームの試合を、僕と同じタイミングで怪我をした3年の先輩と見ながら、チームがどんどん進化するのを感じました。正直ワクワクしました。

 

 それから3年生になって、いよいよ僕たちが主導の代に。ここで3年生の主将が「チームをAとBに分ける」と決めた時、戸惑いが生まれたを覚えています。まずうちの部にはそんなに人がいない。1チーム編成には多いけど、2チーム編成には少ない。そんな中途半端な部員数でした。しかも、分けたところでBチームには試合がない、つまり目指すものがない。Bチームが別の大会に参加してしまうと、本丸のリーグ戦運営に支障が出るという理由で。いくら選手のレベルにばらつきがあるとは言え、こんな決定あるかい、と。グラウンド割や練習時間にも制限があるのに、どうやって2チーム編成をやっていくのだろう。このままではかつて僕が苦手だったチームに逆戻りしてしまいそうでした。自分は再手術明けでプレーできないから、しばらくはB帯同になるなあ、そんなことを思いながら、Bに入るチームメイトのことを考えました。せっかく変化した部活なのに、新入生や後輩はいつかの自分と同じ気持ちになるかもしれないと、悲しくなりました。

 

 でも決まったことはしょうがない。ひとまずチーム分けをした後、B側でキャプテンを決めよう、という話になりました。もちろんやりたがる人はいません。だってみんなAでプレーしたいから。個人的には4年のDさんやってくれないかな、と思ったけれど、さすがに先輩に頼むのは違うでしょう。だって自分たちの代だから。

 

 そこで天啓が降りました。自分がやろう。どうせ半年はプレーできないからAに入ることはない。手術帰省期間暇すぎてずっとサッカーの勉強をした。小学校の頃は学級委員タイプだった。これはできそうなのでは。でもキャプテンだと肩書きが大それてるし、あんまりみんながついてこなさそう。そうだ、学生コーチ。先人がその道を作ってくれたではないか。

 おずおずと申し出て、不可解な目で主将と副主将2人に見られて(ビビってそう見えただけかもしれないけれど)。でも最後には「Bチーム専任の」学生コーチになれることが決まりました。この立場があれば、2チーム編成だって前向きに、チームメイトに嫌な思いをさせずできるはず。

 

 そこから毎日は部活に行くのが楽しくて仕方ありませんでした。トレーニングメニューを準備して、家に帰って毎日何時間もBチームの試合映像を見て、今後のプランを立てて。公式戦に関わることは少ないけれど、頑張り続けるチームメイトを見るのは本当に幸せでした。結果として、運にも恵まれチームは2部残留。自分たちの力だけだとは言えないけれど、最低限の結果を残すことができました。これを考えると、2チーム編成はきっと正しかったのだと思います。1チームだったらコーチをやることもありませんでした。だからあの決定に、今ではとても感謝しています。

 

 コーチ活動にあたってはひとつも嫌なことがなく、思う存分やることができました。ぐんぐんポジショニングやプレスのタイミングが良くなっていく後輩。二度目の手術から帰ってきたと思ったら、急に学生コーチをやり始めた自分を行動で、言葉で助けてくれる同期。色々と言いたいことがあろうに、いじりながらも優しくアドバイスをくれる先輩。選手として大した実績もない自分を、こんなに信用してくれることがあるでしょうか。都立大サッカー部にはこういうところがある。

 

 だからここで感謝を伝えさせてください。「コーチとは」という姿勢を見せてくださった大久保さん。2年生の時、チームを大きく変えてくれた先輩方。3年生の時、自分の拙いコーチ業を見守ってくれた先輩方。集まりの参加率がめちゃくちゃ低いのに、それでも仲良くしてくれた同期。不満もたくさんあるだろうに、最小限の建設的提言で済ませてくれた後輩。本当にありがとうございました。感謝してもしきれません。

 

 

 本当は3年生で引退しようと決めていたけれど、頑張る4年生の姿を見ていたら自分も残りたくなったのを覚えています。でも、プレイングコーチはもういいかな、と思っていました。そんな時牛丸に「来年コーチ専任でやってくださいよ」と言われた時は泣きそうになりました。自分がやりたいから、それだけで活動を身勝手にやってきたけど、ほんの少しは認められているのかもしれない。だったらそれで行こう。コーチ専任になって、新人戦を戦って、ちょっとずつ引退した3年生も戻ってきて。「ここからだ!」そう思った時にウイルスが牙を剥きました。

 

 今シーズンの二部は、僕がずっと参考にしてきた戸田和幸さんが一橋にいて、いつも記事を読んでいた山口遼さんが東大にいて、彼らと「コーチとして」戦える機会が与えられたことに、とんでもない興奮をしていました。けれど、世の中そんなにうまくはいかない。夢の舞台は夢のまま終わってしまいました。

 

 そこからはあっという間でした。引退して、後輩の最終節、東京理科大戦を見に行きました。結果は0対2。奇しくも自分が骨折した試合相手。もちろん勝って欲しかった。

 でも別にいいのだと思います。主力選手が何人かを欠いていることもある。今シーズンのレギュレーションは降格もないし。何より、試合中の後輩たちはずっと前向きでした。戦術的なミスとか、技術的なミスとか、まだまだ改善の余地はきっとある。でもそれは本人たちがきっとわかっていて、あとで修正する。だから今の自分の立場からは、どんな試合でも「良かった」と言いたい。そんな試合をこれからも見せてほしい。そう強く感じました。

 

 都立大の1勝。1つのスライディング。1回の「やれよ!」の声。90分見るだけでこんなに熱い気持ちになれるチームは他にありません。だからこれからも応援し続けよう。試合を観に行こう。OBとして気にし続けられるチームがあるのは本当に幸せなことだから。就職先の配属は日本のどこになるかわからないし、今度は試合を見に行くだけで骨が折れるかもしれないけれど。

 

都立大サッカー部4年 森礼加